受胎告知


私はなぜここにいるのだろう。


故郷クレタで私はイコンの職人だった。
神を天使を聖人を。
決まったやり方で決まった場所に描く。


ヴェネツィアには自由があった。
ティツィアーノミケランジェロラファエロ
見たこともないような、華麗な色彩と闊達な筆致。


ローマで待っていたのは、浴びるような賞賛。
貴族の肖像を思うがままに。
光と形と色彩で。


そして私はトレドに来た。
カトリックの王国で、聖堂の祭壇画を。
その為にこそ私は筆を握っている。


しかしなぜだろう。
国王は、教会は、私を認めなかった。


もう遅いのだ。
故郷に私の居場所はない。
イタリアにももう、戻れない。
絵画が不可能なものを扱うことを
私は知ってしまった。


私はなぜ、ここにいるのだろう。
私はどこにいけばいいのだろう。

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エル・グレコ」はスペイン人が彼に与えた名前である。彼自身は最後まで本名でサインを残していた。それでも彼はエル・グレコギリシア人)に過ぎなかったのである。
彼の残した宗教画は一見神秘主義的で幻想に基づいて描かれているように見える。しかしそこにはむしろ哲学的とも言える「理性の眼」が根付いていた。彼の示す形態の歪曲は、建築の知識と丹念な思索の上で構成されている。なにより彼は、視覚が示す快感を知っていた。現実の美を模倣することにより、形態と色彩が生み出されることも知っていた。
その上で彼は神を光として描く。光を受けた暗闇は、そうして始めて姿を現す。それは古代ギリシアの哲学者プラトンの言説から始まり、当時イタリアを席巻していた新プラトン主義の世界構造に他ならない。彼はその全てを熟知していた。
敬虔なキリスト教徒であり、理性の申し子であったエル・グレコ。彼はまごうことなきギリシア人だったのである。


参考文献
1986年 国立西洋美術館エル・グレコ展」カタログ

エル・グレコ(El Greco, 1541年 - 1614年)

ギリシャ領のクレタ島出身の画家。本名はドメニコス・テオトコプーロス。

当時ヴェネツィア共和国支配下にあったクレタ島で初めイコンを学び、のちにイタリアのヴェネツィア、ローマに渡ってティツィアーノに師事、ヴェネツィア派絵画を学んだ。1577年、36歳でスペインのトレドに渡り没するまでスペインで宮廷画家として活躍した。

エル・グレコの絵画はマニエリスムバロック様式に分類される。全体的に暗い画面、縦に長く伸びた構図、複雑なポーズを取る人体などが特徴的で彼の死後は長らく高く評価されなかったが、19世紀に再評価を受け、パブロ・ピカソジャクソン・ポロックなど20世紀の芸術家にも影響を与えたという。

作品は宗教画が多く、代表作には『オルガス伯の埋葬』(トレド・サントトメ教会)『トレド風景』(ニューヨーク・メトロポリタン美術館)などがある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より

ルーアン大聖堂


「ねえ、先生。あの空の色は何色ですか」


「そらいろ」の絵の具を手に握って
少年はむつかしい顔をした。
刻々と色を変える空に向かって
自分はなんと無力なのだろう。


風にそよぐ木の葉はきらきらと
少年を励ますように笑っているけれど
絵の具で塗り潰された画用紙はぐちゃぐちゃで
もう夕焼けになりかかった空に泣きたくなる。


参考URL:
ルーアン大聖堂 連作と実際の風景の比較
http://www.seinan-gu.ac.jp/kokubun4/report_2003/Yamasato.html

クロード・モネ
Claude Monet (1840‐1926)


1840年パリに生まれる。5歳の時、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移住した。モネは少年の頃から絵画に巧みで、十代後半の頃には自分の描いた人物の戯画などを地元の文具店の店先に置いてもらっていた。そうした戯画が、ル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、彼らは知り合うことになる。ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家であった。ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたと言われている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』

kotori-rainbow2004-11-12

さてさて。おひさしぶりになってしまった<はてな日記>ですが、livedoorの方の記事を新しく作ったので、転用することにいたしましょう。
やっと絵画評論はじめました。他の人と同じ事書いてもつまらないので、自分なりの絵との接し方を。


ルーアン大聖堂、扉口とアルバーヌの鐘楼、充満する陽光 painted 1893

9分でわかる「90分でわかるデリダ」

最近亡くなったらしいフランスの哲学者ジャック・デリダという人の本を読んでみたくなった。本人の著作に触れる前にとりあえず入門書のようなもの読んでみようと思い、それで捕まったのがこの「90分でわかるデリダ」である。哲学初心者の私が選ぶ本としてはかなり安直にすぎる題名なのは自覚している。でも哲学の歴史から体系だてて説明している本がこれしかみつからなかったのだからしょうがない。著者のポール・ストラーザンという学者はもともとは理系の出身で、科学や医学にも通じているところも気に入っちゃったしね。

で、この「90分でわかるデリダ
読んでみて思うのだが、この本の場合デリダという哲学者の説明には90分もいらない。なぜならその主張は一貫しており、生い立ちや思考の展開をたどることには意味がないからだ。はじめから最後まで、彼がやったことはただ一つ。脱構築。これまでに構築されてきたあらゆるテキスト(文章)を解体し胡散霧消させることである。あたかもはじめから何もなかったかのように。

哲学に対するそのような態度の原点として、デリダはまず哲学自体の存在を否定した。伝統的な西洋哲学とは真理を求める学問である。そしてそれは数学的な証明と深く結びついており、またその数学の真理は人間がある事象を直観するところから始まっている。(だれかが1+1=2であると直観した時点で数学が始まる)しかしこの直観によって得た真理が正しいとされるのは、そこには絶対的に正しいとされる不可侵領域が仮定されているからである。デリダはこれを疑問に思う。その領域は経験による直観とは関係のないところで存在しているのではないか。全ての真理は直観されるべきなのに、真理の存在自体が直観とは別の次元にあるのはどういうことか。これはおかしい。哲学はその発祥からして内的な矛盾(アポリア)をはらんでいる!

いくぶん言葉のトリックのような気がしなくもないが、デリダはこのような方法で哲学の矛盾を追及していった。そして次の段階としてその攻撃は哲学支える言葉自体に及ぶ。

伝統的な西洋哲学はアリストテレスの時代から排中律(「肯定と否定の中間にはなにもない」)によって支えられてきた。その思考過程は二項対立によって事象の解釈を進める。「肯定」があるから「否定」が存在する。「内部」があるから「外部」がある。「一般」と「特殊」、「心」と「肉体」、「真」と「偽」。しかしおわかりのように、これではあるひとつの言葉の意味はもうひとつの言葉の意味によって変化してしまう。言葉自体が単独で確立した意味を持つことができない。

では、 そのような言葉を使いながらも哲学はなぜ論理的整合性を保っていると言えるのか。それは哲学の中に見られる論理的な合理性が現実の中に見られるからである。言い換えれば現実に論理の法則が存在することで、それ自体が真理であることを表している。絶対的な真理の存在。本質的な現実。それはデリダがはじめに否定した、人間の直観では捉えることのできないはずの領域である。

デリダは言葉と対象(概念)は本質的な関係を持ち合わせないとする。言語とはそもそも多分に曖昧で流動的であり、それが使われる文法構造や前後の文脈によって様々な意味を含むものである。彼によれば、言語が表すことができるのはそれら曖昧さから生まれる「ズレ」や「差異」が表すシステムだけであり、言語の意味とはこの「差異」によってしか表されているにすぎない。だからそのような言語を論理の基盤に据えることは無意味なのである。

こうして哲学の言葉は解体され、否定されていった。デリダは論理のプロセス全体を無効なものにしようとした。

デリダの理論は見事に哲学全体を根底から打ち砕いた。しかしそのデリダ自身も、論理的な議論に反駁する為に論理的な議論を展開している。デリダの議論は結局、自分の首も締めていることを忘れてはならない。

またそのような哲学の破壊にもめげず、科学の進歩は日々続いている。なぜか。それは科学がはじめから絶対的な真理を前提としていないからだ。ガリレオニュートンに修正をうけたように、ニュートンアインシュタインよって乗り越えられたように、科学は確実なものではないことを科学者自身はよく知ってる。言い換えれば、科学的知識は真理や虚偽を自らに含まない。ただ現実そのものを記述しようとしている。我々と現実との出会いに着いて実験的な証拠を書き留めていくものなのである。

それでは一体、デリダのしたこととはなにか。デリダは哲学を解体し分析した。テキストが何を意味しているのかを解き明かそうとしたのではなく、どのようにして意味に到達するのかを示した。テキストとはいかに言語の豊かさを単純化し、約束事にごまかされているか。デリダはそれを示したに過ぎない。そしてこう言った。論理が排除したものを引き戻そう。直観が持つ豊かな流れから哲学によって排除されたものを取り戻そう。そしてそこに残るのは、人間による人間のための真理である。

こうしたデリダ脱構築論は、哲学・科学の分野で極端な二極化を生む。特に英語圏では猛烈な反発を受け、ケンブリッジ大学では博士号の授与に関して強い反発をしめす教授も少なくなかった。しかしデリダはフランスで愛された。フランスという国は自らの知識人を大切にする。外国でのデリダの不祥事に対して大統領が直々に動く。フランスの生ける最高の知識人として、デリダは認められたのである。

と、まあこんな感じで、他の哲学者や哲学の歴史、デリダの著書の時間的な推移に対する説明を省くと、90分のテキストも9分で読めるほどに要約できる。といってもこれは、デリダについてある英国人がまとめた文章を日本人が翻訳し、それをワタクシ虹色ことりがさらに自分の解釈で要約ものにすぎないので、デリダ自身からはほど遠いものになっている可能性はかなり高い。それこそ<曖昧で解読不能>であるはずの言葉による介入がおこりすぎている。それでも、デリダの方法すなわちデリダの哲学的な態度を意識したこの9分間には意味がある。だってこれからデリダの書いた『 たった一つのわたしのものでない言葉・他者の単一言語使用』を読むんだもん♪

kotori-rainbow2004-10-31

でもって記念すべき十回目のタイトルは、ただの数字のみにしてみた。今までにいくつ記事を書いてきたのかひとめでがわかるから。このはてなダイアリではアーカイブ一覧に飛べるようなモジュールがないのよね。

今日は哲学のご本の感想文。一生懸命読んだので、誰かにほめてもらいたい。
90分でわかるデリダ